昭和49年06月26日 朝の御理解
御神訓 一、「神信心のなき人は 親に考のなきも人の道を知らぬも同じことぞや。」
信心は頂いておっても親に孝行する様な心持ちの、信心が出来ないならばそれは本当の事ではありません。又教えを頂いてもそれを守らなかったならば、それは人の道を知らぬも同じ事と言う事に成る訳です。ですから神信心をしておると言うても、言うならば信心の生き方と言うか道理に合うた生き方と言うか、そう言う物を身に付けて行ってこそ初めて孔子が親に喜んで貰う事を、自分の喜びとする様な信心も出来るでしょうし。
また信心のいうなら、人間としての道も踏み過つ事のない様な道を辿らせて頂く事が出来る。そして初めて神信心のなき人と神信心のある人の違いが見られて来ると思うですね。私は今日朝方お知らせを頂いたんですけれども、テレビでねアメリカの洗剤の宣伝をしてますね。ジェー・アンド・チアーとかいう洗剤です。いわばこう言う物には熱い湯、こう言う物はぬるま湯、こう言う物は水でなければいけんというのが日本の洗剤だけれども、あちらの洗剤は、もうこれ一つで皆んなが洗えると言う宣伝をしてますね。
所が私は信心もですあれこれと言わば、例えば教えも沢山ありますから、それをみなマスターすると言う事は素晴らしいけれども、それが行の上に現われなかったらつまりません。だからこれだけは覚えておけ、これだけを頂いておけばもう全てにです。いうなら一つの洗剤で、どんなものでも洗える様に、この一つの信心を身に付けてさえ行けば、言うなら神信心している者の違いも生まれて来るし、今日の御理解から言うとね。いうならば人の道も踏み外す事のなく、頂いて行けるんだと言う事をね、思うんです。
それで私はそのお知らせを頂いて、どういう信心をさせて頂いたら、どういう信心を言うたら一つ覚えの様に覚えて、行じて行ったら良いだろうかと言う事を、神様にお願いさせて頂きましたらね、渦巻きの蚊取り線香が燃え切って行く所を頂きました。あれがね渦巻きの蚊取り線香がね、燃えて燃えて燃え切って行く信心をさせて頂いたら、所謂こういう一生であればです。間違いはない。
いうなら蚊取り線香で一生を終えたら、いうならジェー・アンド・チェアーじゃないけれども、もうこれ一つで親のある子と無い子程の違いもまた神信心。所謂神様が一番喜んで下さる。親孝行な神信心と言う事にもなり、同時にまた大きな信心と言う事にもなり、大きなおかげも頂くと言う事にもなり、この生き方を行けばです。例えば道徳的な人間は、あああらなければならん、こうしなければならんと行った様な色んな教育があります。そう言う育て方がありますけれども。
いくら知っておっても、それがね守られなかったら詰らん。けれどもねこの蚊取り線香が終わる様な生き方をすればです。その中に全てが入ってくると言う事なのです。私は今朝からそのことを頂いて、確かにそうだろうなあと思うんです。勿論蚊取り線香というのは左巻き、いうならばここでいつも言われる、馬鹿と阿呆で道を開けと言う事なのです。馬鹿と阿呆で道を開けと言う事は、そういう素晴らしいことなのです。本気で馬鹿と阿呆で道を開くと言う事になったら、こういう偉大な信心はないと言う事。
黙って受けて行ける。もう一週間位前だったでしょうか。中村食堂の中村さんが声が出らんごとなりました。バセドーシ病かなんか、どうもそういう気が大体あるんだそうです。だから、子供達がえらい心配して、と言うてお届けがあったから、「もうあんた、声が出らんごとなったってよかじゃんの。」と私が申しました。言うならば、どう言う事かというと、それは、もうい良いよ馬鹿と阿呆で行けると言う事だと思うんです。声が出らんごとなれば言われん。所謂黙って治めると言う事なのですから。
全ての事がそれをです。例えば中村さんが純粋に受けておられると言う事。丁度子供が来て、それをえらい心配する。「ちょっと医者に行かんでんよかの。診てもらわんでんよかの。」と「親先生はもう声が出らんごとなったら、出らんでんよかよ。と言わっしゃったけんで、もう私は安心してる。」そのね、それなんです馬鹿と阿呆ちゃ。あれがもう理知的な人というか、なら中村さんが馬鹿という話じゃないですけれども、信心で例えば私の一言をそう言う風に頂ける様になっておると言う事。
理屈の多い人は、先生はそう言いなさるばってん、医学では、こうのああのと言うでしょうきっと。もう本当にね、医学なんか、言わば中途半端の過程にあるものでありますから、もう本当に、最近私が思う事はね、薬とか注射とかというのは、もう害じゃなくて、毒になるです必ず。見えんけれども、必ず毒になるです。昨日も丁度二十五日の研修会のあっている半ばに、熊本の富永先生から電話が掛かって来た。受けさして頂いたら、あちらのお弟子さんが、今度学院に行っている。
それが体が悪かったから、えらい薬を飲んだり注射をしたり、それがその薬を飲んだり注射をしてから、言わばショックで、意識が不明になってしまっとるという知らせがあった。まあ学院にまで行く位あって、その注射とか薬とかと、私は思うたんですけれども、すぐお願いして下さいと言うから、お届けさして頂いたんですけれどもですね。本当に皆があまり過信しとる。頭が痛けりゃノーシンを飲み、胃が痛けりゃ胃酸を飲む。成程それはちょっと教えたごとあるばって、必ず毒になりよる体のどこにか。
もう本当に勿論薬を飲まんでよい、医者に手を取って貰わんでもよい位に健康のおかげを頂かにゃいかんけれども、もしそうであっても、今いう中村さんの様な生き方です。もう親先生が声の出らんごとなってんよかじゃんのち言いなさったよ、ち。だから私は医者や薬にゃ頼らんと。と言う事は、私はそのままものごとなる事は黙って治められると言う事で、かえって有難いじゃないか。かえっておかげ頂くばいという意味を、受け取った訳です。二、三日前でした。善導寺の原さんがお届けされました。
昌一郎がこの頃、こう顔が腫れちから、手まで腫れとる。仕事はしよりますけど、前ああいう病気をしとりますけん、やっぱり気になる訳です。それで私が申しました。それは神様がね、太れ、太れと言い御座るとこたいと。こう顔が腫れとる。だから昌一郎さん小さい事にこだわらず、小さい事にもやもや腹の立つ様な考え方じゃなくて、はぁこれは私には大きゅうなれ大きゅうなれと言うて、神様が言い御座るとこと思うて、そういう問題を全部自分が心豊かに大きくする事の為の修業にしなさい。
それは神様が太くなれと言い御座ると、ちょうどあんた肥えたごとしてから、かえって見かけが良かよ。と言うてお話をした事です。それを親先生がそう言われると、本当に安心する感じがありますね。お母さんも安心なら昌一郎さんも安心。そして例えばいま私が言った事に本気で取り組ませて頂いて、大きゅうなる事に、いうならば今日の御理解で言うと、本気で馬鹿と阿呆にならせて頂く気になればです。煩わしいものは、必ずボトボトと落ちてしまう。
蚊取り線香に火が点いとれば、蚊がボテボテ落ちる様に、煩わしい問題が無くなって来る。人は煩わしいと言う事であろうけれども、こっちは、馬鹿と阿呆で受けるけん、いっちょん煩わしい事はなか。私は今日思わせて頂く、私共が本当に信心をです。これ一つでいうなら、蚊取り線香がね、燃えきってしまうと言う事をこれで私共が一生終わったら、素晴らしいおかげとお徳を受けられると思うですね。一生これで燃えきろうという位のひとつ発心をなさるとみなさん良いです。
ジェー・アンド・チェァーじゃなかばってん、これ一つで一切が何もかも出来る様に、もうこの馬鹿と阿呆というか、いうなら、また大きな信心と言う事にもなります。豊かな信心と言う事にもなります。あの人がああ言うたから、と言う様な事だけではない。難儀な問題と言った様な問題でも、だから難儀を感ずるから御取次を頂く、御取次を頂いたら、いうならば中村さんに声の出らんごとなったら出らんごとなったがおかげが、と。それをね、はいと受けれる心が、馬鹿と阿呆の心です。
それはそこに、金光大神取次の働き、親先生の御取次の働きと言う物を信じるからでもありますけれども、けどやっぱり心配になる、御取次を頂くそう言われる所に安心が出来た。その安心の出来たその姿が馬鹿と阿呆です。それを少し利口な人に言ったら、あんたどん馬鹿じゃんの。とても親先生が医者でばしあるごと。ようなしきらっしゃるの。とそげな事に頼っとってあんた大事の出来るばい。とこう言う風に言うでしょうね。例えば、信心があったっちゃ、信心の薄い人はそう言うでしょう。
だから私は、同じ呆気ならです、同じ馬鹿と阿呆というならばです。親先生の言う事が、本当にそのまま、神様のお言葉として頂ける位な馬鹿と阿呆にならにゃいかんです。もうそこには、死ぬる生きるは預けてある。そう言う生き方をですねして、私共が燃えきって行く、勿論燃え切って行くと言う事は、そういう熱情が何時も掛けられておかなければならないと言う事。そこにはです必ずおかげが頂ける、煩わしい問題が無くなって来る。落ちてしもうて来る。
それこそこの世合楽、この世極楽のおかげにも繋がる事であります。例えば気にならない心配にならない、人が心配しよるのに心配ならないというのは、それは極楽でしょう。その心配ならない気にならない、その心が次のおかげを呼ぶ訳です。次のおかげを頂けれる訳です。本当に親先生が薬が毒と言うたと言う事を、本気で皆さんが信じられたらです。とても毒を飲もうてんなんてんと言う気にはならんです。私は馬鹿になるとはそう言う事でもあると思います。
それこそ例えば毎日飲まなければならん時には、それこそお詫びにお詫びして飲むなり頂くなりすると言う事になりますでしょう。毒にもなっても、やはり、毒薬変じてまた薬になると言う事もあるから、そこん所を願うて行く事にもなるでしょう。皆さん私共が何を例えば覚えなければならんか、例えば今日の御理解で言うなら、信心のなき人とこう言われるが、信心があっても、信心のないものもあるものも変わらんような生き方であったら、無きも同じことになるでしょう。
そこで一つ愈々馬鹿と阿呆にならせて頂けれる修業、精進を本気でさせて頂く所からです。そこからもうそれこそ自由自在な人の道と言う物が生れて来る。自由自在これで燃えきって行ったら、間違いない絶対真の道を、人の道を歩き行じたことになるのです。これで一生私共が燃えきったら素晴らしい事です。例えば道徳的な観念から抜けきっとらんからね、いうならばあげんしちゃいかんこげんしちゃいかん、真っ直ぐな道ばこうやって歩かんならん。という生き方は大変きつい生き方ですよ皆さん。
決して真の道とか人の道と言う物は、本当の人の道はそんなに真っ直ぐな道じゃないです。曲がりくねっているです。それは丁度道路もカーブがあったりする様な物です。それを真っ直ぐ行かにゃんちゅうて、真っ直ぐ行こうとしよるけん、たんぼの中やら川の中を渡って行かにゃん結果になる。人の道というのはね。もうそれこそ道が付いておる所を歩いてさえ行けば到着する所へ到着する事になっている。
それも今日私が言う、それこそ馬鹿と阿呆で歩いて行くと、そこに気張りがない。その都度都度付いて行く道を歩いてさえいけば、本当な事いうならば、極楽なら極楽に行き着く事が出来ると言う事。真っ直ぐな道というてね、金光様の信心でもそんな偏屈な人がありますよ。私は本当にあれは間違っていると思う。そして真っ直ぐそれこそ尺で引いた様な生き方をしようとするからです。
道はこう曲がるごと出来とるとをこうやって行くから、たんぼの中を渡って行ったり、川の中を渡って行ったりしてから、苦労しよるのは確かにそうです。馬鹿と阿呆で行ってごらん。もう楽な楽な、腹も立たなきゃ取り越し苦労もない。だから安気あんどんのこどあるけれども、そうではない。そういうおかげを頂く事の為に、いうならば、蚊取り線香に火が点いとらなければ、そういう神様一心の心と言う物が向けられなければならない。薬の方にも一心を向ける。
神様の方へも一心を向けると言った様な、これは薬だけの事ではありません。人事の場合にだってそうです。あの人にも頼りこの人にも頼ると言った生き方じゃなくて、神様一心に縋って行く所から、中村さんじゃないけれども、親先生が声が出らんごとなってんよかじゃんの。と言わしゃったで、それでちゃんと済んでしまう。それでおかげ頂いて行く。こんな楽な道はないでしょうが。それを医者に行かんならんてんするけん、痛い思いをしたり、痛い注射をしてもろうたり。
苦い薬を飲まなけりゃならんのでしょうが。そしてそれがどうかというと、結果においては、良うなったごとあるけれども、その毒というものは、体全身に行き渡っとるとです。間違いないですそれは。だからそういう生き方からです。愈々人の道を間違いなく歩かせて頂く事の為にもです。本気で蚊取り線香にならせて頂く事。所謂馬鹿と阿呆で道を開けと仰ってある。これは大した教えだなあと、また改めて思わせて頂きましたね。
どうぞ。